JR日光駅 設計者は、鉄道院の名もなき若手建築家!
長年の謎だった大正ロマン漂うJR日光駅舎の設計者を
日光鱒釣紳士物語著者日光在住の福田さんが特定した。
今日の一言!
凄いぞ~福田さん~~!
以下、東京新聞より
大正時代の雰囲気が漂う洋風駅舎を設計したのは誰なのか。JR日光駅(栃木県日光市)にまつわる長年の謎を、市内の郷土史研究家福田和美さん(63)が解き明かした。研究の末に浮かんだのは、当時、鉄道行政を所管していた鉄道院の名もなき若手建築家。福田さんは「忘れ去られていた人物を蘇(よみがえ)らせることができて本当にうれしい」と感慨深げだ。(石井紀代美)
福田さんが謎に挑んだのは、二〇〇三年に栃木県が明治-昭和初期の建築物に関する調査をまとめたのがきっかけ。当時、日光市職員で、調査に加わって日光駅舎も調べた。
現在の本格的な洋風建築のたたずまいは一九一二(大正元)年の改築によるが、設計者は不明。鉄道関係の史料や新聞の縮刷版にも載っていなかった。帝国ホテルの設計で知られるフランク・ロイド・ライトら著名な外国人建築家の名前がまことしやかに挙がった。
手掛かりは、棟梁(とうりょう)の名前などを記す駅舎の棟札(むなふだ)だけ。請負業者名などと一緒に、墨で「鉄道院技手 明石虎夫」とあった。「鉄道院の責任者か設計者か…」。だが証拠はなかった。
状況が変わったのは昨年十一月。たまたま大正時代の史料を調べていて、名前が一字違いの建築家「明石虎雄」の訃報を見つけた。
東京高等工業学校(現東京工業大)建築部を卒業後、鉄道院に入り、「日光停車場」を設計、監督をした。福田さんによると、その時代の日光で「停車場」と呼ばれるのはJR駅舎だけ。福田さんは「棟札にあった虎夫と同一人物だと思う」。
生年月日や享年は書かれていなかったが、史料から推測すると虎雄は二十歳を過ぎて「停車場」、つまり駅舎を設計したことになる。完成から数年後、工務店を営む父親を助けるため退職して故郷の愛媛県へ戻った。その後、病に倒れ、三十代で他界した。
訃報記事には、虎雄の顔写真も添えられていた。「若くて穏やかな顔。ようやく会うことができた。二十代前半で後世に称賛されるものを造った。不況で苦しい世の中だが、今の若者にも頑張ってほしい」と笑った。
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