ひっそりと佇む真冬の釈迦堂 殉死の墓を訪れてみた。
2月末は、まだ寒かったけど、
日光も3月に入ったら急に暖かくなりましたね。
ちょっと前ですが、真冬の誰もいない殉死の墓を訪れてみました。
前回の記事は→(こちらで)
田母沢御用邸の対面にある釈迦堂。
その境内の奥には、三代将軍徳川家光公の死に殉じた5名の忠臣のお墓があります。
雪を踏みしめ墓石に向かうと、、、
↓
凛とした冷気の中には、高さ3mを超える大きな墓石が、、、
徳川譜大家臣19名と、奥の5名が殉死した忠臣のお墓が並んでいて、春日局の義理の孫の堀田正盛のお墓もあります。
説明板には、
所有者 輪王寺 昭和56年10月27日指定
本史跡は、雄大な女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する栃木県指定有形文化財(建造物)釈迦堂の西側にあり、総数24基の墓碑のすべて釈迦堂本堂に東面して整然と並んでいる。これらの墓碑は、江戸時代には、前・中・後の3列で、前列(5基)が徳川三代将軍家光の殉死者5名の墓碑、中列(12基)と後列(7基)が初代将軍家康・二代将軍秀忠の譜代家臣の墓碑であった。しかし、明治31年(1898)、田母沢支流の根通川の水を田母沢御用邸に引く用水工事のため、後列の7基が前列右側に移され、現在の2列になった。
殉死の墓(5基)
慶安4年(1651)4月20日、徳川三代将軍家光の死に際して、殉死した側近5名の墓碑である。殉死したのは堀田正盛(玄性院殿、老中・下総国佐倉城主)、阿部重次(芳松院殿、老中・武蔵国岩槻城主)、内田正信(里明院殿)、三枝守恵(静心院殿)、奥山安重(真證院)のえ5名である。墓碑は、前列中央から左端までの5基が、この順で並んでいる。殉死の理由はそれぞれにあったが、家光から特別な恩顧をうけており、いずれも番方の頭(親衛隊隊長)を勤めていたことも見逃せないところである。殉死は、一度に有能な家臣を失うことであり、後継者にとっては大きな痛手となることから、寛文3年(1663)四代将軍家綱の時代に、幕府は殉死を禁止し、江戸時代を通じて、この堀田らの殉死が最後となった。なお、平成9年9月の保存整備工事の際、殉死した5基の墓から、分葬された遺骨が発見された。
譜代家臣の墓(19基)
殉死の墓5基を除く19基は、初代将軍家康・二代将軍秀忠に仕えた重臣の墓碑である。これらの家臣の墓碑は、当初東照宮奥の院の傍にあったが、寛永13年(1636)、家康の21神忌の際に、仏岩谷にあった慈眼大師天海大僧正創建の妙道院に移された。さらに4年後、妙道院とともに現在地に移転した。
栃木県教育委員会・日光市教育委員会
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